“中国医学”を知る

 
   中国医学を知る     :保健の科学、 第37巻 第1号1995年
            -漢法を知る-


     
-漢法に科学性を求めて-

            伊沢凡人、平山廉三、伊沢和光、島津憲一、佐藤知樹

1.中医学の発生とわが国への影響

やはり中医学の場合も、その生い立ちは、他の諸地域における生薬療法がそうであったように、初めは経験的なものが土台となり、自然発生的なものであったに違いない。そしてどの地域の医療を見ても、その上に、おかしな迷信的要素が加わるか、迷信的仮説(空理、空論)の上に立案された生薬療法が現れるのは、むしろその文明のなせる業であった。性(さが)かもしれない。
しかしその発祥が、多分に自然発生的なものであったということは、その時点や地点をいつどこで、どいううふうに決め付けるか難しいものにしている。だが、中国の場合は、それが紀元前(BC)、かなりのところまで辿れることはほぼ確実であり、その頃、既に多味薬剤療法(Polypharmacognostic therapy,いわゆる中医学に見られる処方)も形成されていた。しかもそれが、わが国に与え続けた長い歴史とそのい拡がりの幅や影響の深さは計り知れないほど大きい。平安朝期に丹波康頼が彼なりの見識で、唐、隋の医書から抜粋したアブストラクト的な書物「医心方」は、永観2〜慶応末年まで(984〜 18679年)、つまり江戸時代の幕府医学館でも医生のテキストとして使われていたし、また江戸初期に導入された明の李時珍の「本草綱目」も同様の扱いを受けておるほか、この書物は、江戸期の和法(わが国固有の生薬療法)にもかなりの影響を及ぼしている。言い換えると、中医学の影響は明治期になって、西洋医学の側がそのヘゲモニーを奪いとるまで続いたのである。
しかし、ヘゲモニーを半ば強権的に奪いとった頃の西洋医学は、まだ、アスピリンさえも無い時代であった。だから皮肉にも薬物といえば、かなりの部分を「あちら」の生薬療法に依存しておったのである。そしてその主な理由が“わが国には気休めの生薬(きぐすり)しかないから…”というものであった。

2.では、あちら(西欧)の生薬療法とは
例えば、ジキタリスの葉、センナの葉、アロエの葉(のエキス)、コカの葉、ウワウルシのは、ベラドンナの葉、ヤボランジの葉、インド大麻、ロベリア草、シナ花、丁子、サフラン、カマラ、ゴア末、大風子、ホミカ子(馬銭子)、ヒマ子、ストロファンツス子、メンマ根、コロンボ根、コルヒクム根(及び子)、ヒドラスチス根、ゲンチアナ根、吐根、イリス根、吉草根、コンソリダ根(コンフリー)、ヤラッパ根、セネガ根、カスカラ根、コンズランゴ皮、フラングラ皮、柘榴皮、キナ皮、乳香、没薬、麦角、などがそれで、ここでは、以上の理由から、この種のグループを、一応、ヨーロッパ(西欧)の生薬療法と呼んで区別しておく。ただ一言ことわっておかないとまずいのは、いま、上に記した生薬のうちで、特にセンナとアロエとウワウルシとサフランは、全く関係がないのに、漢法と混同されているのが現実だということである。
また解りやすくする為に、上記したものは、一応ヨーロッパ(あちら)の生薬療法だというふうに締めくくったが、やかましく言うとその中に南米やアフリカその他の諸地域に産する生薬、つまり非ヨーロッパ産の物がかなり含まれている。例えば、センナやヒマ子はインド及びアフリカ産であり、アロエはアフリカ及び西インド産である。その他の類例をもう少し挙げると、ゴア末、ヤボランジ葉、キナ皮、コカ葉、吐根、などは南米産、ストロファンツス子、コロンボ跟、没役などはアフリカ産、コンズランゴ皮は南米及びアフリカ産、セネガ根はカナダ及び北米産カマラはインド及びフィリッピン産、インド大麻はインド産、シナ花は中央アジア産、セイロン桂皮はインド、桂皮は中国南部・ベトナム産、丁子はモルッカ群島さん、ホミカ子はインド及びベトナム産、石榴皮はインド産、大風子は熱帯アジア産と言った具合である。では、なぜこういうものまで一括し、ヨーロッパの生薬療法というふに締めくくったか、というと、
1)歴史が示すようにヨーロッパの国々及び人々は、他の諸民族よりも先に、地球上の諸地域を植民地化して行ったが、その過程で、彼らは、それぞれの地域に特有の生薬類を選別し、良さそうなもの、有効性がありそうなものは、かなり大胆に、自分達の遵奉する(西洋)医学のワク組の中に採用していった為であり、
2)次は一足遅れて、明治期にわが国が西洋医学の仲間入りをした時は、そうゆうもののすべてを一括し、西洋医学流の生薬療法として導入してしまったからである。
3)もう一つは、現在我々が接触している生薬療法の中で、この西欧流の発想(対症療法)がいかに根強く影を落としているか、そこには読者の想像をはるかに超えた物があるからである。この点については、生薬よりも生薬中の有効成分を抽出し、用いた方が良いと考えてすすめていったその後の西洋医学の流れを一瞥するなかで具体的にふれてみたい。
なお、先程、アロエとウワウルシ及びサフランの4つは、ヨーロッパからの生薬療法であるのに、特に漢法と混同されているという誤りを指摘しておいたが、更にたち入って観ると、そのうちでセンナとウワウルシの二つは、明治時代になって、ヨーロッパからの生薬療法として導入された知恵が民間に伝わり、混同と混乱を招いたものであるのに対し、
アロエ(アロエなる植物の葉の汁液を干し乾かし、塊状に固めた物)と、
サフラン(サフランなる植物の雌しべの柱頭のみを乾かしたもの)の二つは、既に、江戸時代から輸入されていたという古い歴史を持っている。

3.アロエとサフランと八つ目鰻
 
アロエというのは大変歴史性にとんだ生薬で、アフリカと西インドのものを合わせるとその基原植物は五百種類は下るまいと植物分類学者は言っている。しかしそのうち、昔から医療に供されたのは4〜5種類で、その他は効能の薄い種だとされており、いま、日本で最も普及しているのは、この「薬用」から除外されたキダチロカイである。しかし生まれは、やはりアフリカである。ところがそんなアロエが万病に効くとか、“医者要らず“だと言われ、この液をつければ、どんな熱傷も痕を残さずに治ると、日本では宣伝されている。しかし重い3〜4度の熱傷はどんな名医・名薬が現れても必ず痕は残る物であり、これは生体側のルールであるから、この壁は誰にも破れない。その反対はT〜2度の軽いものだが、こちらは正しく手当てさえすれば必ず治るし痕も残らない。またアロエに頼る必要もない。
『本草網目』を編んだ李時診や『山和本草』を編んだ貝原益軒はスイカズラ(忍冬)の項で、最も身近な「至賎ノ薬ニ至貴の効アリ」と述べて、その希少価値や舶来ものを崇拝する世間の愚かさを諭しているが、1〜2度の熱傷の場合はアロエよりも忍冬のほうが遥かに優れている。さて本物の薬用アロエは、紀元前16世紀に書かれたエジプトのエーベルス古文書中に既に載っていて、それを西洋医学も採用した。したがって明治期に出たわが国の薬局方にもアロエはその初期から載っている。ただヨーロッパではこのアロエが堕胎用に利用された歴史があって、わが国でもそれを真似た形跡があり、飲むとかなりの暴瀉(ひどい下痢)を起すので、膠原病の素因があって、流産しやすい人は、妊娠中、その服用を避けなければいけない。さてアロエエキスの塊には、ソコトラとかキュラソオとかケープなど、産地や輸出する港町の名が冠してあるが、例えば平賀源内が実際に見た暗赤褐色の塊が果たしてソコトラか、ケープアロエであったかは知る由もない。彼はその著『物類品隲』の中で「廬絵、和産ナシ。蛮産、紅毛人持チ来り何物タルコト未だ詳カナラズ」とその基原植物が解らない事を歎いている。『物類品隲』が出たのは1763年であるが、それより50年程前(正徳2年)に出た『和漢三才図会』には「別名ハ奴会、納会、象胆、黒クシテ苦シ、故ニ象胆ト各ゾク、隠語ナリ」とあり、また『本草網目』を陰陽する形で「波期国ニ生ズル者ハ乃チ樹脂也。状ハ黒飴ニ似ル・・・・・。気味ハ苦寒。厥陰今日経ノ薬ニテ其の効ハ虫ヲ殺シ熱ヲ清スルニ専ラナル故ニ能ク小児ニ癲癇、驚風・五疳ヲ治シ三虫ヲ殺ス、虫クイ歯ニ伝ケテ妙ナリ・・・」、とも記している。
次はサフラン(泊夫藍)だが、南ヨーロッパやトルコが原産のこの植物の雌しべの乾燥品が中国へ入り込んだのは古いらしく基原植物には「心憂鬱積、気悶シテ散ゼヌモノニ血ヲ活カス」とあり、これは天方国の人、つまりアラビア人が伝えた効能だとも述べている。そしてわが国へサフランという植物が導入されたのは文久年間(1861〜3)らしいから、平賀源内が『物類品隲』を著した頃(1763年は、まだ乾燥品(雌しべの先の柱頭の乾燥品、つまり生薬サフラン)しか輸入されていなかった。そこで彼は「コノモノ生草、絶エテナシ」つまり基原植物はまだ見た事がないと述べ、「乾花、蛮國ヨリ来ル」とか「ラテイン語、サフラン、紅毛語ハ、フロウリス・エンタアリス、又、コロウクス・オリエンタアリト云ウ」などと、なかなかハイカラぶったことも述べている。Florisは花、Crocusは植物サフランの属名である、さて『本草網目』には上記のように、サフランは気鬱、つまり気の塞(ノイローゼ)に効くと記してあり、ほぼその効能を正しくつたえているが、わが国の現状ではそれが「婦人病の」(特効)薬、ということになっている。人知が進み、家庭医学書もかなり出廻つている時代だから、婦人病にもいろいろあることぐらいは衆知の筈である。ところが生薬療法の世界に はいりこむと人々は大らかになり?「婦人病の」薬ということで罷り通してしまう。臣薬(西洋医学の薬)の弊害に不安を抱く病人の心に漢方薬には害がないという風説は安らぎを与えるのであろう。もともと体の為になるべき筈の薬で害が出るということこそ問題だが、安らぎを求める病人の心が生薬療法を甘やかしているという面もある。これでは藁を掴むのと同じであるが、似た例はたくさんある。
江戸期の本をみると特発性夜盲症、つまり鳥目には八つ目鰻に車前子をかけて食べると効く書いてある。鳥目にとしてあるが、八つ目鰻にはV,A効力物質が100中25.000IU,乾品で15万I.U.もあるからこれは効くが、近頃、老人性白内障の人も八つ目鰻を捜している。理由は目の薬だからというのである、だが眼病にもいろいろあり、効くとは限っていない、これは江戸時代よりも現代人のほうが知的水準は低いということだ。以上の事実から、われわれは生薬=漢方薬ではないこと、生薬療法=漢法ではないこと、生薬療法は中国に特有のものではないことなどを学ぶことができた。

4.生薬療法から有効成分主義への移行
更に第二次世界大戦後は、合成化学と分子生物学などの進歩を拠り所にした新薬類が多く登場し、薬が生体内の正常な酵素系の運営を妨げる性格破鍵者であることを一層明確にした。抗生物質、制癌剤を始め、通風用の尿酸排泄剤は細尿管での再吸収系をブロックし坑コレステロール剤はその合成酵素系やブロック剤であり、降圧剤はカルシュウム吸収系やアンジオテンシン転換酵素系のブロック剤というふうにである。言いかえれば、其のすべてが「反」生物的な性格を顕わにしだしたのである。

5.中医学の歴史と漢法の違いについて
慨観すると中国には、1)理学療法系の針灸と、2)生薬療法系の二つがあり、後者には少なくみても三つの流れがある。
イ)本草学派:個々の生薬を主体に薬効及び療法を述べており、だいたい『神農本草』→『神農本草経』→『唐本草(新修本草)』→『開宝本草』→『嘉祐本草』→『経史証類備急本草』→『本草網目』と続いて清代に移行するが、次第に生薬の種類は増え、また植物書に近いものも現れる。ここで注目すべきことは羽化登仙を夢見た神仙道家がこの派から輩出したことで、彼らは特に練「丹」術に凝り、赤色硫化第二水銀(丹・朱)と鉛丹(赤色酸化鉛)を混同したり、鐘乳石と生々乳(天然の二硫化砒素(鶏冠石・雄黄)を含んだ鉱物の昇化物)を混同し、薬害を多発させていたことで、その詳細は『医心方』大19,20巻に出ている。そして除毒用の処方もたくさん書いてあるが、薬石は遂に効なし、であった。
ロ)日本で後世派と呼ぶ、隋の巣元方の『病源候論』に見る実証性すら逆に少なくなり、次第に陰陽五行説を強く主張し、金・元の時代に栄えたがその後の明・清以後になると温(疫)病説が栄えた。その特徴は、排泄でなく、補法を軸に据えており、生薬としては、麦門冬・竹葉・菊花・地黄・玄参・梔子・芦根・黄ぎなど無性格に近いものか、ステロイド様の成分を含んだ知母・甘草・桔梗の類を多く採用し、水分の補給を専らとしている。だからいわゆる多血質タイプの人には向く。
ハ)日本で古方派と呼ぶ『傷寒論』医学の体系で、Treatise on feversと英訳される。編著者の張仲景は後漢の2世紀末頃、たくさん伝承されていたそれまでの処方(多味薬剤療法)に一つの筋道を立て、体系化を試みようとした。その動機は一族の多くが伝染病(腸チフス?)に罹り他界したためだったという。その著(『傷寒卒病論』は惜しくも散逸したが王叔和の力で『傷寒雑病論』の形で復元され、113種の処方が記載されている。そして今我々の手元には宋板のほか、康治本『傷寒論』(処方数は50)と、雑病篇は『金匱要略』の形で伝わっている。『傷寒論』の骨組みは、実・虚の証を弁別し、汗・下法を実施することだという。さて、地域は広いし長い歴史を持つ中医学についてはそのどのへんを切開したら、漢法の真髄が見えてくるか、これは難しい問題である。ところが、薬害・薬禍という西洋医学の側からの問題提起が出てきたお陰で、その切り口は見えてきた。つまり、新薬療法が「反」生物的な性格をもったものだということは既に述べたが、薬害の発生は、それが対象療法的な用薬法であること(反応構造の仕組み)とも深く結びついている。迂濶であったと言われればそれまでだが、今まで、先輩達は、西洋医学の用薬法が全く対象療法であることに無頓着であった。熱・咳・痒み、痛み・高血圧など、個々の症状を対象に選んで中和・抑制を計るか(いわゆる対症療法)、癌や微生物など病気を齎らす対象物を選んでその抑圧を計るか、すべて対象療法だったのである。ビタミン、ホルモン剤の場合は、補完(陥)的対象療法であり、根底にある発想は一貫して対象的である。ではそういう対象療法と違う用薬法は、ほかにあるのだろうか?ふと食中毒というものを考えた時、われわれはそのさい生体側が示す対処の仕方を考察した結果、
イ)悪い侵入物は胃袋にある間に口から出せ(吐)
ロ)腸へ行ったものは下せ(下)
ハ)体内へ吸収されたものは肝臓の解毒機能を信頼し、あとは、呼気・汗・尿の形で、出してしまえというものであることに気づいたのである。これは有害・無害の識別は生体内の細網内皮系に委ねよという教えであり、その間に、免疫機構の発動をも、あてにして待つがよいとの教えであり、そこに吐・下・汗法というもう一つの用薬法のあることを示している。
そしてこれならば他力(新薬)に頼らず自力で治す用薬法だから、生理的であり、自力を強化し、また薬害の心配も非常に少ない。つまりこの発想(用薬法)を現代に生かせば応用の道は広く開ける。つまり、今、普及している中医学は漢法とイコールではないということである。
張仲景はそこに医療の一つの体系化があることに気づき、その芽を指摘しょうと試みたのではないだろうか。ただしこの医療体系ですべての病気(特に癌とか結核性の空洞などのような不可逆的病変)に対応することは、むろんできない。この点についてはスペースがないので他の機会に譲る。